これはK96さんのwebマンガ+イラストサイト「870R」 http://k96.jp/ (サイトは18歳以上推奨)「HANA-MARU」からの二次創作です。(HNじゃいこ) 歩く猫のブログ http://betuneko.blog.shinobi.jp/Entry/90/ でもご覧いただけます。 全26話。このファイルは15~26話まで。2012/3/13更新。 バカ系時代劇シチュ / 原作枠内カップリング。史実っぽいものはウソだらけです。 こころのひろい おとなむけ。おこさまは よまないでくださいね。 大江戸870夜町(15)  羽ばたき1号が検問を越えた頃。  徒歩グループはまだ市中にいました。 「かかりますね」  工藤は、やきもきと行列を見回しました。 「こんなところで足止めを食っているヒマはないのに」  タンデムで逃亡されては困ると言って、華宮院のお頭がバックシートを譲らず、工藤は涙を飲んで徒歩組に回っています。 「市境検問は念入りっスからねー」  行列はなかなか進みません。樋口屋敷に大福親方を置いたのち吉原の伝言を見て合流した雅だけでなく、シャワーを浴びてゆっくり着替えた劉までが追いつきました。 「あんたたち、まだこんなとこにいたの?」  地下プロレス優勝の威圧感で、劉は悠々と割り込みます。 「侍風吹かせるとかして、順番譲ってもらいなさいよ」 「樋口みたいな小家の名を出したって、誰もビビらないよー」 「残念ながら吉澤さまの仰る通りです。劉さん、ちょっと先頭の方と交渉してみていただけませんか」 「やーよ、割り込みなんか」 「たった今なさったばかりですが」 「あら、たまたま親切な人が譲ってくれたのよ。ねーえ」  後ろの数人は揃ってうなずきましたが、皆ガクブルの笑顔です。 「生傷まみれの大男にはどなたも親切です」 「やだ、猫傷よコレ!」 「偉い人用のゲートは全開よー。通っちゃう?」  陽光太夫はのんきに言いましたが。 「太夫、あなたはお帰りいただけますか」 「なんでー!」 「ちょうど雅さんも来ましたし。店外営業から戻ったフリで」 「また送迎係かよ」 「将軍不敬犯の手配状が生きていたら、困ったことになりますので」  くのいち装束の太夫は、全くのナチュラルメイクです。 「待って待って、すぐ塗る!」  太夫はしゃがんでメイク道具をぶちまけました。 「口元のホクロ隠すぐらいじゃ足りないわよ。素直に帰りなさいな」 「チョー化けるから待ってー。赤じゅうたんで顔パスされちゃうくらいのセレブ風にするからー」 「まぶたに目描くのやめなさい」  そこへ、たくさんのお供を連れた駕籠が現れました。当然のように偉い人ゲートへ向かいます。 「豪勢だわあ。あれくらいじゃなきゃ脇道は通らせてもらえないわよ。あら、こっち来る?」  駕籠は行列の近くへそっと下ろされ、覗き小窓が開けられます。 「もうし、そこの細目のお兄はん」 「僕ですか?」 「お兄はん、お城で働いてみる気おへん?」 「あっ、十和古局よ。今の大奥を取り仕切ってる最高権力者よ」  劉は興奮して足踏みします。 「ちょっと吉澤さま、駕籠のぞいてきてよ。十和古局のファッションチェックなら雑誌の売り上げ倍増だわ」  ワーキャー言われ慣れている十和古局は、乗り込み扉を大きく開けさせました。 「吉澤はん。ものすごタイプやわあ、華奢で控えめやけど奔放でいながら品もあって」 「条件が厳しいんですね」  猫かぶりモードで膝まづいた吉澤に、十和古が手をかけます。 「見た目よりガッチリしておいやすこと。いちおう警護衆どすからそこそこ腕力も必要どすのんえ」 「腕も腰も、丈夫です」 「うふふ。ほな採用」 「じゃあさ……」  吉澤はスルリと十和古の手を取りました。 「僕の身分はもうお城勤めってことになりますか?」 「ま、働きもん。ほたらこのままお城へ参りましょ」 「おっけ。おーい、この人たちを通してやれー」  お城勤めはそこらの同心より階級が上なので、調べ人はしぶしぶ工藤たちを通しました。 「吉澤さま……、何とお礼を申せばよいか」 「いいですよー。僕がしたくてしたことだから」  工藤はぐっと拳を握ります。 「助け船らしさは毛ほども見せず……、この工藤、感服いたしました」 「やめろってば。本能に従ったまでさ」 「本能?」  吉澤は含み笑いを隠せません。 「タイプよとか言われて後宮に手引きされるなんて官能小説みたいなこと、ほんとにあるんだねえ。やっぱり日頃の行いがいいから」 「京ことばで分かりにくかったかな……」  そのタイプって確かホモ将軍のタイプだったよなーとたとえ心で思っても、口には出さない工藤でありました。  一方、お山の中の華宮院では。  日が落ちるのを待ち切れなかったキースが、行商姿で寺の門を叩きます。 「よう」 「……」 「俺のベイビーはどうしてる?」 「お元気ですよ。そろそろ離乳食です」 「ある意味赤ん坊より手がかかる方のベイビーは?」  軽口には乗らず、尼僧はツンとして主の居室へ取り次ぎました。 「キース!」  華が慌ただしく出迎えます。 「ちょっと事情が変わったの。樋口桔梗介の口を封じるまで、寺には近寄らないで」 「でも俺、言われた通り攘夷志士を集めてきたんだぜ」 「……何ですって?」 「倒幕派。幕府を倒すんだろ?」 「私たち、幕府の寺社禄で生活してるのに?」 「ああ?」  夫婦はじっと見つめ合いました。 「えっと華、山はもううんざりーとか、言ってたじゃん?」 「ええ。都会っ子だもの」 「幕府の監視マジうざい死ねばいいのにーとかも、言ってたじゃん?」 「だからってぶっつぶせって意味じゃないわよ」 「アレレ」  キースは懐から手紙を取り出します。 「俺たち親子がコソコソせずに暮らせる世の中にしてっていう、壮大にしてカワイーおねだりなのかと……」 「私、賭博の因縁をどうにか洗い出せないかしらって頼んだんだけど?」  華の父親、先代将軍は博打好きで、賭博を全面合法化しました。  誰でも大っぴらに博打が打てるようになったおかげでヤクザ主催の怖い賭場は一気に寂れ、それを恨んだ街道博徒が暗殺に動いたと読んだ華でしたが、キースは仲介の伊賀者のことしか知らないのでした。  キースは手紙を取り出し、文面を指でなぞっています。 「でもだって、とーばく。えコレ、とばく?」 「もう、漢字は苦手って言うからオール平仮名にしてあげたのに!」 「毛筆むずい。てか華ってクセ字?」 「で、攘夷志士はどこにいるの」  字ヘタがバレないうちにと華は話題を変え、キースは背後の山を指しました。 「石の採掘場に潜んでもらってる。穴だらけでちょうどいいから」 「仕方ないわね。何とか穏便に解散してもらって」 「できるかなあ」  その頃、羽ばたき1号はお山を目指して飛んでいました。  桔梗介がフォワードから呼びかけます。 「おい、着陸はどうする」 「しりこ」  用人頭はペダルを漕ぎながら答えたので、第一声を噛みました。 「あー、シリカ玉の採掘場なら十分なスペースがある。我らの普段の仕事場だ。常夜灯を目印に着陸できるだろう」 「武人の身で石掘りとは、あんたも苦労してるな」 「言わんでくれ。おお、あそこだ。見えるか」 「ずいぶん賑わってるな」 「今日は全員召集だから、採掘は休みのはずだが……」  こうして、羽ばたき1号は攘夷志士たちのど真ん中に着陸したのでした。 大江戸870夜町(16) 「そ、空から舞い降りただと……!」 「何奴!」  減速パラシュートで着陸した羽ばたき1号は、わめきたてる攘夷志士に囲まれていました。 「おい頭、どうなってる」 「分からん。とにかく坑道へ」  石を投げて牽制しながら、二人は坑道にたてこもります。 「百姓どもが徒党を組んで……、一揆か! 荘園の小作料が不満か!」 「百姓とは無礼千万!」 「こん身なりはぁ大望果たすまでの変装……」 「しーしー、黙るったい」  志士たちは訛りもまちまちで、用人頭はますますパニックです。 「百姓でないならいよいよ誰だ!」 「そう言うお前こそ誰だ!」  そう言うお前こそ誰だって言うお前こそ……、自己紹介に踏み切れない同士、際限のないやり取りが続くのでした。  桔梗介がやれやれとしゃがみ込み、工藤の持たせたクレンジングで白い地塗りを落としている頃。  樋口家上屋敷に乗り込んだ斗貴は、頭の固い家臣団に手を焼いていました。 「ですからこれは! 決して兄上を訴追するような内容じゃないんです!」  真っ赤な顔で訴えても、手配書を囲んだ家臣たちはピンと来ないようです。 「内容も何も、まず意味が分かりませぬ。ドキューンでキュピーン」 「何かのトンチでありましょうか」 「ヒントを願いますぞ、斗貴さま」 「あのその、上さまは絵姿の兄上をお気に召して、お側に召し抱えたいと、キャー」 「先ほどからたびたびお顔を隠されるが、婉曲表現ばかりでは分かりかねますぞ」  ニャンニャン言う大福親方からニャンニャンと説明を受けた斗貴はニャンニャン色んな想像をしてしまい、婉曲表現しかできないのでした。 「ですからあの、兄上には特別のおはからいが……」 「フン」  家臣たちは互いに目配せを交わします。 「やはりくさいですな」 「あいまいな罪状で準備をさせず、スピード裁判で片を付けようという腹ですぞ」 「父上の時のように? だけど父上も父上でしたわ」  斗貴は、下屋敷を切り回すうちに気づいたことが多々ありました。 「蟄居処分で済んだのは有り難いくらいよ。父上ったら参勤交代はフケるし、藩金はチョロまかすし」 「斗貴。もうよい」  和之進が脇息を押しやります。 「お前はようやってくれているが、あまり分を過ごした口をきくでないぞ」 「ごめんなさい。叔父上」 「何の抗弁もできなかった先代の時のようにはさせぬと言うておるのだ。桔梗介を守りたい気持ちは皆同じ」 「はい」 「こたびこそは十二分に備えをし、道義的潔白を証しだてる。そして、内に隠すものこれ一切なしと! 見事に腹かっさばき!」 「叔父上、切腹しちゃってますけど!」 「そうだが?」  切腹は武士の誉れなのでした。 「伝説になれ、桔梗介……!」 「なりませんから、ホモの求愛受けたっていっこも伝説生まれませんから、キャー!」  とうとう直接言ってしまい、斗貴は顔を覆いました。 「つまり三白眼が上さまをヘロヘロに……ジョイスティックで抜き身がニャンニャン……ビーチで樽酒が酒池肉林……」 「なんと」 「衆道のお誘いだったとは」  迷走するぶっ込み説明とニャンニャン訛りで、破天荒な背景がかえってダイレクトに伝わります。 「さすが、我が藩きっての男色王子」 「工藤のお手ほどきの賜物だなあ」  思わぬところで工藤の株が上がったりしつつ。 「では本当に、先代殺しごにょごにょ関連の訴追ではないのだな?」 「そうですわ」 「であれば、せっかくのご厚意から逃げ回っているのはますますいかん。不敬の罪で、結局捕縛されることになるだろう」 「ですけど」 「よいから早う桔梗介の行方を教えよ。斗貴、あやつはどこからお前に指示を送ってきたのだ」  ……吉原から。と思ってまたキャーと顔を赤らめる斗貴でありました。  一方、江戸城白書院 堀炬燵の間。  報告待ちの将軍は、炬燵でほっこりしていました。 「クレオちゃん。ワシ、将軍なんかいつでも辞めたろ思てんねん」 「へー」  クレオは手を黄色くしながらミカンを食べています。 「辞めてどうするネ」 「ショービジネスに向いとる気がすんねん。昔お忍びで大衆演劇やっとってんけど、結構人気者やってんで」 「分かる分かる。割と華あるネ」 「せやろ? 嬉しいなあ。こんなこと相談できるの、クレオちゃんだけや」  将軍は、三白眼侍・脱衣バージョンのデザイン案を見比べてご満悦です。 「十和古やんの言いなりになっとるだけでは、本当の愛は手に入らんって分かったわ。しょせんは金で作ったハーレムや」 「その三白眼氏も、ハーレムに入れる思てたヨ」 「いーや」  将軍は唇を噛んで首を振りました。 「彼に無理じいはせえへん。その代わりワシが自由の身になって、どこまででも追っかけるつもりや。どんなに拒否られても、踏まれても、地の果てまで……」  手の届く美少年に慣れすぎた将軍は、手の届かない茨の道を想像すればするほど燃えてしまう、変態体質になっていたのでした。 「じゃあ、彼氏の身元が判明したらすぐに退位するネ?」 「いや。まだしばらくは働いて、実績を積まんといかんそうや。ポッと出のワシが次期将軍を指名しても、老中どもにハネられて終わりやからな」 「傀儡将軍は気使うネ」 「分かってくれるか。心おきなくシュミをさらけ出せるって素晴らしいなあ」 「何でも相談乗るヨ。あー、ちょっと炬燵でのぼせたネ」  どっこいしょと立ったクレオは、ミカンの汁でしたためたあぶり出し文書を猛禽ロボの伝書ボックスにセットし、そっと窓から放ったのでした。  ふたたび樋口家上屋敷。  斗貴はまだ桔梗介の居所を問い詰められていました。 「だんまりもいい加減にせよ、斗貴」  和之進がやれやれと立ち上がります。 「お前たち兄妹は、昔から言うことをきかぬ子供であったなあ」 「そうでしたかしら」 「お前たちが共闘したら手に負えぬと、亡き義姉上もこぼしておられた。桔梗介を土蔵に入れて仕置きしても、お前がかんざし一本で開けてしまうのだ」  斗貴はそっぽを向いています。 「桔梗介を捕える前に、まずはお前を拘束しておかずばなるまいて」 「叔父上?」  和之進は次の間へ合図を送りました。すり足の近習たちが駆け寄って、斗貴の腕を取ります。 「兄上を、お上に売るおつもりですか!」 「ご公儀は絶対だ。斗貴、お前も武家の娘なら聞き分けよ」  広間を連れ出されながら、斗貴は必死に振り返りました。 「そんなにお上が怖いのですか! 穏健派とか言ってるけど、ただの腰抜けなんじゃないかしら!」 「待て」  引き戻されて、斗貴は身をすくめます。  ゆっくりと近づいた和之進の手が、かんざしを抜き取っていきました。 大江戸870夜町(17)  一方、とっぷり暮れた採掘場。  わあわあやかましい両陣営に、華宮院の紋入り提灯が割って入りました。 「おーい、どっちもストップストップー」  提灯持ちのキースの後に、華が続きます。 「こんばんは皆さん。盛り上がってるわね」 「ご門跡、これは一体!」 「キースどん、約束は!」  クレームいっぱいの面々がぴょこぴょこと顔を出し、華は舌打ちしながら見回しました。 「ええと、志士の皆さんにはキースからお話があります。それでお前はどうしてここにいるの。樋口の嫡男は殺ったの?」 「それが」  用人頭は膝まづいて長い報告に入り、桔梗介は気まずい感じで志士たちの列に加わりました。 「おまさん。手配中の三白眼でねっか?」  ひとりが懐から人相書を出します。脱藩浪士である志士たちは、検問の動きを常にチェックしているのでした。 「おいたちと同じお尋ね者じゃったか」 「まあ、そうだ」 「空なぞ飛んで、大がかりな逃亡やのう」 「まあ、そうだ」  探り探り意気投合した桔梗介は、彼ら攘夷派連合が、エゲレスの協力を取り付けるつもりだと打ち明けられたのでした。 「外国支配を打ち払おうというのが攘夷だろう。異人なんかと手を組んでいいのか」 「攘夷の前にまずは倒幕だで」 「弱腰の幕府に任せておっては、列強にええようにされるばかり」 「ここはええのう。江戸が一望のもとに見渡せる」  男たちは居座る気マンマンです。 「どうしてこう極端な話になってるのよ」  呆れ返る華に、キースはガイジンジェスチャーで両手を広げてみせました。 「読めない手紙をもらったら、行間を読むしかないじゃないか。エゲレス人の俺に頼むんだから、外交筋を当たれってことだと思うじゃないか」 「当たってもらいたかったのは賭場を仕切る暗黒街の線よ。あなた殺し屋でしょ」 「すげー頑張って根回ししたんだぜ。殺し屋なのに……」  キースはしょんぼりしながら進み出ました。 「あー諸君。せっかく来てもらったが、華宮院を倒幕の拠点にするという話は一旦白紙だ」 「何ー?」 「今日のところは山を下りてくれ。いや、エゲレス公使には必ず紹介するから」  志士たちは黙っていません。 「きしゃん、この期に及んで言を左右に」 「公使にコネがあるいう話も怪しいもんぜよ」 「あ、そこはほんとだから。公使の名刺もらってるから」  キースは懐から印籠を取り出しました。 「名刺入れにちょうどよかったなあ、これ」  トリプルハートがぴかりと反射します。  志士たちは息を飲みました。 「それは葵の……!」 「こやつ、幕府の犬じゃ!」 「え、違うぞ。ほら名刺」  名刺を見せてるつもりのキースはぐいぐい印籠を差し出して、男たちは後ずさります。動揺する視野でブレまくるトリプルハートは、やっぱり葵の御紋に見えました。 「せからしか、だまされたったい!」 「援助話でわしらを集め、一網打尽にしようとは」 「おーい、聞けー」  抜刀していく志士たちを説得する気も失せ、キースは華を背にして銃を抜きました。 「拳銃は当たらんちゅう噂じゃ」 「一斉にかかるぜよ」  一触即発の中間地点に、棒立ちの桔梗介がいます。 「どけ樋口。色々つかんでるらしいから殺さずにおいてやる」 「何だとーう。仕方ない、条件を飲もうじゃないかキース君」 「? どういうボケだか分からんぞ」  キースが狙いをつけかねている間にも、桔梗介は両手を振り回しました。 「うわあ、何でも言うとおりにするから、人質を放すんだキース君」 「人質なんてないぞ」 「樋口さんとやら、下がっとってくれんか」 「状況を勘違いしとられるようじゃ」  桔梗介はかまわず最前線を歩き回りました。 「その女は幕府要人の血筋だ。その銃殺死体を倒幕派のしわざに見せかけようなんて、お前はどこまで卑劣な奴なんだキース君」  長い説明の間に、華とキースはそーっと入れ替わります。 「わっはっは。こいつを殺して幕府への挑戦状っぽくしてやろうか。死体の眉毛をマジックでつなげてやろうか!」 「きゃー、助けてー」  行間の読めないキースなので、台詞は華の口立てですが、棒読み台詞も地方出身者たちにはかえって聞き取りやすいようでした。 「くそっ、わしらに女殺しの汚名を着せようてか」 「銃殺死体で真っ先に疑われるんは、拳銃を携帯しとる坂本さん……」  志士たちの戦意が揺らぎ始めた頃。 「行け。ここは任せろ」  桔梗介は背中越しに囁きました。 「あれは連発銃だ。一斉にかかっても半数近く殺られるだろう。大事を前に兵力を削ってる場合か」 「む」 「ここは俺が食い止める」 「樋口さん、あんた……」 「どうやら俺も、志ってやつに感化されたらしーヤ」  桔梗介はぎくしゃくとイイ奴スマイルを作りました。 「安心しろ。あいつが女を殺しても、俺が必ず生き延びて、マジックでキースって書いといてやる。ふぁカモトさんのしわざになんぞさせるものか」 「坂本さんを知っちゅうがか」 「はカモトさんは俺の英雄だ。さカモトさん。ちゃカモトさん」  どれか当たってるはずなので、桔梗介は話を進めます。 「キースの役目は恐らくあんたらの足止めだろう。俺は上空から見たんだが、谷へ下る道に誘導灯がついていた。捕り方はそっちから来るはずだ、尾根側へ逃げろ」 「さすが」 「空飛ぶお尋ね者は無敵じゃ」 「一番ヤバい手配犯は二人まで、羽ばたき1号を使うといい。離陸は助走が肝心だ。何人かで押してやれ」 「分かった」 「おまはんも立派な志士じゃ」 「この恩は忘れんきに!」  志士たちは、涙を拭って走り去ったのでした。  華はほっと息をつきました。 「助かったわ。感動屋さん揃いで」 「助かったわ樋口さん、ですよご門跡」  用人頭がやきもきと間に入ります。 「すまぬ樋口どの。人に頭は下げぬお方なのだ」 「期待してないさ。ようキース君。その節は」  桔梗介は妙なテンションのままちゃきっと指を立て、キースはうさんくさげに睨みました。 「その節って何だ。俺は行間を読むのが苦手だぞ」 「うちの親父を殺してもらって」 「事故だ」 「そうだったな」 「暗闇で、ちょっと余裕がなかったし」 「キース君、さっきはもっと余裕がなくて、全員殺す気だったろう」 「華の安全が最優先だ」 「いやだ。あの人数の死体の山なんて、後の始末が大変よ」  愛が空回るキースは、桔梗介に当たるしかありません。 「お前いつからそんなしゃべるキャラんなった、樋口」 「必要な時だけさ。親の仇を目の前にした時とかな」 「俺、迷惑料を払ったろ」 「そうだった。律儀な男だ、感心感心」 「何だよ……」 「律儀なお前は、こうして窮地を救われた恩返しをしたいだろうな」 「……」 「恩返しをしたいだろうな」  二度言えばキースでも行間を察します。 「分かったよ。何でも望みを言ってくれ」 「お前、エゲレス公使に顔がきくというのは本当か」 大江戸870夜町(18)  桔梗介がひとりでお山を展開させている頃。  徒歩組は、ゴネる陽光太夫を引きずりながらまだ夜道を急いでいました。 「遠ーい、疲れたー、休むー」  一緒に検問を抜けた華宮院の用人衆は、付き合ってられんと先に行っています。 「太夫、あと少しでお山ですから」 「山って、登りー?」 「下りで始まる山なんてないっス」 「あんたくのいちでしょ。どうしてそんなに体力ないの」 「朝晩の走り込みが嫌んなって里を出たのー」 「やっぱ俺が吉原へ連れて帰るか」 「うふふー。今さら戻っても、検問の注意を惹いちゃって逆効果よねー」 「仕方ない」  工藤は太夫の先に回ってかがみました。 「どうぞ。少しペースを上げますので」 「おんぶ? 姫抱っこがいいなー」 「あんたはこっちよ」  後ろから太夫を刈り取った劉は、略奪スタイルで肩に担ぎました。 「げほ、下ろしてよー。怪物ー、赤鬼ー」 「誰が赤鬼よ」  お荷物を荷物扱いすれば、がぜんペースがはかどります。 「なるほど、太もも固めを封じるには、おっ担ぐのが一番でしたね」  工藤は心おきなく歩調を速め、逆さになった太夫は劉の背中で大きくバウンドしました。 「ゆ揺れる、りゅ劉ぽん、酔うー」 「ちょっと、おかしなとこにつかまらないで」 「だって、丁度いいとこに吊革ー」 「私の六尺ふんどしよ。食い込む食い込む」  そびえるお山のシルエットを目指して一行はひた走り、沿道の農村では「内股ダッシュの赤鬼にさらわれるよ」と言って子供を寝かしつけるようになったのでした。  一方、赤鬼に「子供は寝なさい」と言われていた冬成は、「お江戸の歩き方」編集部に戻っていました。 「今日は大収穫だったなあ。まず、将軍は三白眼侍が好き。三白眼は地味近習が好き」  敬称略で、ホワイトボードに相関図を引いていきます。 「近習は生足くのいちが好き。くのいちはお金が好き」  矢印はひたすら一方通行です。 「お金で動くのは富山のキース。キースは将軍暗殺犯。暗殺犯は華宮院が保護してる。あれっ。華宮院は殺された将軍の娘だ。どうして親の仇を保護してるんだろう」  冬成は、劉の真似をして精神を集中させました。 「暗殺は、反抗期の娘が仕組んだものだった……」  慌ただしくメモをめくると、点と点が線で結ばれます。 「まず、直属である伊賀者のツテで殺し屋を雇う。まんまと父親を消し、実行犯をかくまって捜査を攪乱したら、あとは疑心暗鬼になった政権幹部が身動き取れずにいるうちに、着々と幕府の弱体化は進んで、次代ホモ将軍はご乱心……」  マジックでホモ将軍→三白眼→の流れを華宮院につなぐと。 「ホモ将軍に追われた三白眼が、華宮院の庇護下に入ろうとしている今、ここに倒幕の一大勢力が生まれる。いけるぞ、このプロット!」  原稿用紙を出した冬成は、サラサラとタイトルを書き入れました。 「男色一代男(仮)。実名使わないよう気を付けなきゃなー」 「斗貴さま、ちゃんとホモ将軍って言えたかなあ」  下屋敷でやることもない天音は、とりあえずはなれを掃除していました。 「あ、これ!」  納戸の奥にあったのは、招き猫型の貯金箱です。 「ねえ、これってお父っつぁんの箱根細工シリーズじゃない?」 「懐かしいニャー。若え頃の内職ニャ」  猫人形の首輪にはぐるりとプッシュボタンが並んでいて、ボタンには文字が書いてあり、パスワードを設定できるのですが、入力を間違えると内部に腐食液があふれ出し、中の硬貨を溶かしてしまうのでした。 「内職ってレベルじゃないわね」 「凝り性だったニャ」  中にはいくらか入っているようで、揺するとカタンと音がします。 「納戸の奥でホコリかぶってたのよ。後で斗貴さまにお渡ししようっと」 「天音、ちょっとこっちへ貸しニャさい」  親方は招き猫を受け取って、ぞうきん絞りにねじるが早いか、ずるんと筒を引っこ抜きました。 「開いちゃうんだ……」 「パスワード忘れの非常措置ニャ。さ、中身をいただくニャよ。今はいくらあっても助かるニャ。おや?」  筒をのぞいた泥棒猫は、がっかりして中身を振り出しました。 「小汚いかんざしだけニャー」  そこへ、ばたばたと侍女たちがやって来ました。 「ちょっとお邪魔するわ、天音さん」 「どうかしました?」 「上屋敷へお使いよ。斗貴さまがあちらへ泊まられるらしくて、お泊まりセットをご所望なの。ないと眠れない抱っこフィギュアがあるとかで、はなれを探してみてとのことなんだけど……、あら、これよこれ。招き猫型の」 「ンニャニャ」  親方が筒を突っ込んで渡すと、侍女たちは慌ただしく出て行きました。 「抱いて寝るほど大切にされてるニャんて、職人冥利に尽きるニャア」 「でもあれ、長いこと納戸にしまってあったっぽいのに……」  天音は布団に落ちていたかんざしをそっと拾います。 「何だか変よ。これ、すごく大事な物なのかも……」  空っぽの招き猫を振って、斗貴は声を上げました。 「どうしよう……!」 「どうかなさいましたか、斗貴さま」 「いいえ、何でもありません」  土蔵の外には見張りがいます。  斗貴は平静を装い、夜食の重箱をかぱんと開けました。 「どうしよう、貯金箱のパスワードを知ってるのは兄上だけ。兄上が来てしまったのだわ。罠とも知らずに……」  もりもりとおむすびを頬張って不安を振り払います。そこへ。 「樋口さま! どうかお開けください! 樋口さま!」  上屋敷の立派な表門をドンドン叩き、呼びたてるのは女の声です。 「ここは樋口さまのお屋敷でしょう! どうか入れてください! ご嫡男が男色どっぷりの樋口さま! 謁見の順番が大名中Cランクの樋口さま!」  樋口家が大声で言われたくない事実ばかりで、天音はすぐさま中に入れてもらえました。 「こら娘、何のつもりだ。ことと次第によっては無礼討ちも」 「ああ、助かった。追っ手から逃げているのです。吉原から足抜けをしたのです」 「何と」 「知り人の家はどこも駄目なのです。私を捕まえればちょっと嬉しい額の報奨金がもらえるのです。即金でぽんと一両」 「ほほう」 「助けてはやりたいが」 「向こうも商売であるからして」 「素直に戻ればきっと許してもらえるぞ。拙者たちも口添えしてやろう」  薄給侍たちが天音を説得にかかっている頃。 「ニャア、斗貴嬢さん」 「大福親方?」  土蔵の小窓に、ぴろぴろと綿毛がチラつきました。親方のロング猫じゃらしです。  綿毛を追って白い前足が宙をかき、何度目かで窓枠に取り付いた白猫が、プルプルしながら顔を出します。 「頑張って。何だか知らないけど」 「斗貴嬢さん、餌で釣るニャ」 「餌って、ええと」  おむすびのおかかで根性を見せ、窓を越えた白猫は、首に粗末なかんざしを結びつけていました。 「まあ、これ!」 「どうしても嬢さんに届けるって天音が言い張るもんでニャ」 「そうよ、ちょうどこれが必要だったの! でもどうやって貯金箱を?」 「知らニャい方がいいこともあるニャ」  かんざしは、錠前開けのピッキング棒でした。  見張りが門の騒ぎに気を取られたスキに錠を開けた斗貴は、招き猫に布団をかぶせて土蔵を出ました。 「あら、だとすると兄上が来たんじゃなかったってことね」 「お兄上が動きそうな様子はニャかったが」  大福親方は、桔梗介一行と華宮院が手を結んだ成り行きを知りません。 「最後は実家を頼るつもりなのかもしれないわ。決して叔父上を当てにしないよう、警告しておかなきゃ」  斗貴はまっすぐ吉原を目指すことにしました。 大江戸870夜町(19)  人みな眠る江戸の夜。  こんな時間に出歩いているのは、大抵カタギではありません。  酔っぱらいやヤクザ者や酔っぱらったヤクザ者が、つぎつぎ斗貴に絡んできます。  そのつど大福親方がシャーフー言って追っぱらうのですが、病身の親方はさすがに息が切れてきました。 「おいらもう歩けねえニャ。先行っとくれ」 「船にしましょう。運河が近いわ」  斗貴は、親方を支えながら船着き場へ向かいました。 「変わった駆け落ち者だなあ。面倒は困るんだが」  不審げな船頭は割増料金を要求してきます。  乏しい小遣いをあるだけ渡した斗貴は、髷からピッキング棒を抜きました。 「あとはこれくらいしか」 「かんざしかい。べっこうか銀か……、鉄? 身なりに合わねェ野暮な趣味してんな」 「舶来品ですよ。兄上が土蔵に入れられた時、道で泣いてた私に、通りすがりのジョン万次郎さんがくれたんです」 「アメリカ土産かい」 「向こうでは先住民に間違えられることが多くて、投獄されてはこれで華麗にプリズンブレイクしたとか」 「えーとつまり?」 「錠前開けができるんです」 「い、いらねえよ、そんな盗っ人まがいの」 「おーい、今盗っ人とか言ったか」  通りから声をかけたのは、提灯を提げた番所役でした。 「や、こりゃ清十郎の兄ぃ」  船頭は急にペコペコします。 「怪しい娘がおりやして、ちょうどご番所に届けようとしてましたんで」 「ひどいわ、あるだけ巻き上げたじゃないの。この人の懐をあらためてみてくださいな」  これこれこうと説明した通りの財布が出てきて、清十郎は船頭を締め上げました。 「この野郎、どういう了見だ。夜間料金ったってボリすぎだろう」 「そんなぁ、いつものお目こぼしの範疇ですぜ。取り分もきちんと折半」 「うほんげほん、お前でまかせ言ってんじゃねえぞー」  いいとこ見せたい清十郎ですが、斗貴の目はごまかせません。 「まあ。権威をかさに着て、いつもこんなことを?」 「いやお嬢さん、不審者を片っ端から捕まえてたらキリがねえんで。ある程度金を持った奴なら不逞の輩とは違うだろ。そのへんは各番所の裁量だから」 「私のことも、ご裁量で見逃してやろうとおっしゃるの?」 「まあホラ。船が入り用なんだよな? 俺が船漕いで送ってってやろうか」 「特別扱いは結構です。私が不審者で、船頭さんが不当料金業者。きちんと手続きしてくださいな」  頑固な斗貴は、自分から番所に向かったのでした。  船頭は口頭で指導を受け、身元について黙秘を通した斗貴と親方は、留置場にぶち込まれました。 「さ、私の分もお布団重ねてください」 「ニャア。斗貴嬢さん、おいらの体を気遣ってわざと番所に?」 「夜の間はどう動いても止められるわ。朝一番に出ましょう。こんな錠前チョチョイで開けられます」 「ニャニャ、しーしー」  斗貴が格子から手を引っ込めたと同時に、清十郎が顔を出しました。 「寒くねえか。俺の綿入れだが使うかい」 「まあ、ありがとう」 「すんなり身元をしゃべっちまえよ。朝んなりゃあんたの親が届けを出して、それが照会に上がって来んだからよ」 「そうですわね」 「どうせ叱られるなら番所沙汰じゃねえ方がいいだろ。今のうちなら俺が送ってって、あんたが急病で倒れてただの適当に言い繕ってやるぜ」 「……」 「そういうのは嫌なんだったな。真面目すぎんのも疲れねえかい」 「……」 「自己紹介したっけか。俺、清十郎ってんだ。名の通り清い人間になるのもいいかって、あんたを見てて思っ」 「くー、くかー」 「……肝の太いお嬢さんだぜ」  翌朝、空っぽの留置場に立ち尽くした清十郎は、朝日に向かって「俺のばか」と呟いたのでした。  始業の早い樋口家上屋敷。  斗貴は反省したかなと、和之進が土蔵へ向かおうとしていた矢先。 「殿! 殿!」 「何事だ、騒々しい」  近習はアワアワと表を指さしました。 「門前に異人が参っておりまして、エゲレス公使館から来たと申しております」 「コチラ、ミスタ・ヲーケンですヨ」  通訳が提示した身分証には確かに「公使館 臨時職員」とあり、門前払いはしにくい感じです。 「何だか知らんが、お通ししろ」 「チョ武家屋敷まじクール、ワびてネ? サびてネ?」  はしゃぐ通訳は俗語ばかりが流暢です。臨時雇いのキースに、公用の通訳は付かないのでした。 「ウッソブーツ脱ぐと思ってナカッター、ダサい靴下履いてきちゃったんデスケドー」 「あのう、何でしたらお靴のままで」 「エゲレスジョークですヨ。ツカミはオッケー」 「 ....It's not O.K, idiot.(オッケーじゃねえ阿呆)」  キースは自分でしゃべりたいのをぐっとこらえ、英語で本題を切り出します。  フンフンと耳を傾けた通訳は、ひとつ咳払いをしました。 「サーテ、オメデトゴザマース樋口さん!」 「はい?」 「これからの倒幕運動は、エゲレスが全面的に支援しマスヨ。臨時職員の臨時根回しデ、攘夷派が続々と集結中。日本の夜明けは近いワネ!」 「倒幕運動」 「どういう言いがかりでござるか」  通訳は手配書を取り出します。 「聞いたこともないようなトンデモ罪状で訴追されとるこの人。お宅の嫡男でよろしかったデスカ」 「ええ、まあ」 「一体どうやってそのことを」 「それはマア置いトイテ。ひどい話ヨネエ。濡れ衣ヨネエ。幕府の横暴に苦しんでいるノネエ」  ことさらに気の毒がられ、家臣たちはひそひそと囁き合いました。 「現状への不満をあおろうとしているな」 「これは、寝返り工作の常套手段ですぞ」 「殿。ご油断めさるな」 「あー、ヲーケンどのとやら。これはホモの求愛でござる」  ぴしゃりとやっつけた和之進でしたが。 「ナーント、君主がおおっぴらに男色を喧伝するダッテ。野蛮きわまりない政権デスヨ。即刻滅びてもらいマショウ」 「いかん、キリシタンには逆効果だった」  侍たちの困惑をよそに、キースは長文をまくしたてます。通訳はにんまり笑いました。 「見たトコロ、ご嫡男は逃げ回ってマスネ」 「ああ。我らも早々に出頭させるつもりでおる」 「しかし、手配書が回された時点で“あっコレうちの甥です”と手を挙げたりはなさらなかったようデ」 「いや、最初はちょっとパニくって。別件のごにょごにょ容疑なのかと」 「すでに手配から一昼夜。コレ藩ぐるみで隠し立てしとるみたいに見えるけど大丈夫カナー、どうカナー」 「……それは脅しと受け取ってよろしいか」 「早く言えばそうデスワ。ちょっとした条件飲むナラ、全然黙っといてあげマスヨ」 「条件とは?」 「集結しすぎた脱藩浪士が江戸での拠点に困っとりマス。樋口サンとこで受け入れてくだサイ」  結局は倒幕参加のお誘いになり、家臣たちは頭を抱えました。 「いけません、殿」 「ようやく藩政が落ち着きを取り戻したばかり」 「しかし見たか。人相書きひとつでこうもあっさり身元を突き止めて来た。地の利のない異国の地で、何たる諜報力」 「確かに、とても太刀打ちできそうにありませぬ」 「今や江戸は列強の手中にあるも同然」 「皆の者、これは小家の我らが打って出る好機と考えよ」 「では殿」 「この大船、乗るぞ」  かくして、和之進とキースはがっちりシェイクハンドを交わしたのでした。 「メデターイ。やっぱ一国の大名を味方にできるのは大きいネ。脱藩浪士の寄せ集めデハ、本国へのプレゼンもしにくかっタヨ」 「ご期待に添えるかどうか。我ら穏健派なもので」 「またまたご謙ソーン」 「それじゃあ今日はこのへんデ。ステイチューンブリティッシュFMバイバ~イ」  お調子よく屋敷を辞した通訳は途端に真顔になり、懐からミカンくさい文書を取り出しました。 「Let's see ....」  香ばしいあぶり出しは、大英博物館エジプト部門からスカウトされた潜入工作員、クレオの報告書です。 「既出の情報との矛盾はないようだな。いいだろう。ツカミはオッケー、ネタもオッケーなんちて」  通訳は情報精査担当のエージェントで、ぶっつけ本番の売りネタ審査を終えたキースは、ほっと安堵の息をついたのでした。 大江戸870夜町(20) 「……叔父貴は誘いに乗っただろうか」 「恐らく」  ようやく再会した桔梗介と工藤は、華宮院の僧坊に落ち着いていました。 「樋口さん。キースを雇った伊賀者のことだけど」  スパンと襖を開けた華は、すぐさまきびすを返しました。 「おい、何だ」 「後にするわね」 「ご門跡、どうぞご遠慮なく」 「だっ、だってイイトコみたいだから」  諸肌脱ぎの桔梗介に、袖をまくった工藤が手をかけています。 「誤解です。変装した時の白塗りが背中の方までいっていて、クレンジングを」 「あ、あらそう。やあね」 「あらそうじゃないわよー」  天井板をガタガタとはずし、顔を出したのは陽光太夫でした。 「せっかく二人っきりにしといたのにー。おっぱじまるならこっからでしょうがー」 「……何の殺気も感じませんでした。さすがは忍び」 「発してるのは殺気じゃなくて邪気だからー」  とんぼを切って飛び降りたところに、華が駆け寄ります。 「ちょうどよかった。あなた伊賀の人なのですってね。暗殺依頼のいきさつについて、詳しいことをご存知かしら」 「ちょうど私も聞きたかったんだけど。前将軍の一の姫であるあなたが、どうして暗殺犯と一緒になったわけ? 一体どんなロマンスが?」 「……劉さんはなぜ床下に?」  工藤がのぞくと、劉がホコリまみれで現れます。 「ジャーナリズム精神よ。武士道と衆道のボーダーラインを探して」 「のぞきと取材のボーダーラインも探してください」  朝寝が嬉しいハルと雅は、広間の布団で寝ています。  これ以上盗み聞きされたくない桔梗介たちは、建て付けが丈夫な華の私室へ移動しました。 「重要な取引のことはあんまり知らないわー。私下っ端だったから。ほんとは小判にも近づいちゃいけなかったんだけど、金の匂いに抵抗できなくて」 「そう」  なぜか桔梗介にんーんー話しかける息子をあやしながら、華は考えました。 「そういえば、伊賀者って普段何をしてるの? 直属の隠密とは聞くけど、お城じゃひとりも見かけなかったわ。まあ隠密だから、ちょくちょく見かけるものでもないんでしょうけど」 「忍びは現地集合だからあんまりお城には行かないわよー。お呼びがかからない時は、カジュアルにどこの依頼でも受けてたわ。一番のお得意は、街道博徒かなー」 「街道博徒!」  賭博の因縁がつながって、華は息を飲みます。 「天井裏や床下からイカサマを見張るの。たまに手札を教えたりー」 「なるほどね」  劉が目を閉じて集中します。 「伊賀者としちゃ、お得意様だから博徒連の依頼は受けたけど、将軍暗殺という依頼内容に抵抗があって、実行犯だけ外部から連れてきたんだわ」 「へー」  陽光太夫は完全にひとごとです。 「華さんは、パパ将軍の仇討ちをするのー?」 「そのつもりだったわ。幕府内部の人間が糸を引いていたらね。でもヤクザの親分連合はちょっと」 「あら、キースさんならどんな手強い相手でもぶち殺してくれそうじゃない?」 「それはダメ」  華はきっぱりと首を振りました。 「殺し屋が匿名依頼主を探すってだけでも業界のタブーなのよ。反転攻撃なんてさせられないわ」 「では黒幕が政敵の誰かだったら、ご自分でお相手なさるおつもりだったのですか」 「そうよ。太った幕臣の一人や二人、あれ一本で」  壁には立派な長刀が掛かっています。 「暗殺みたいな反則使った奴がのうのうとお城にいるなんて、ハラ立つじゃない。私は山ごもりだってのに」 「へー。ヤクザ屋さんならハラ立たないんだー?」 「何かもういいわ。遠すぎて」  華はすっきりした表情で赤ん坊を揺すりました。  その頃。 「ダメっス~、海老ちゃんにイルカちゃん」 「くそ、放せ」  雅はザコ寝布団でハルに抱きつかれていました。 「紅鯛ちゃんにサバ子ちゃん、ウツボ姉さん」  海の生き物シリーズは、花札屋遊女の源氏名です。 「釣れないっス、魚だけに~。小鶴ちゃんつばめちゃんアヒルちゃん。鳥さんシリーズも可愛いっス~」 「マメな奴だぜ。きっちり人気番付順だ」 「じゃ、カップ順でいくっス~。天音ちゃん鷺菜ちゃん」 「トップバッターかよ」  雅はハルを布団巻きにして表へ出ました。きりりと澄んだ朝の空気を吸い込みます。 「天音、もうすぐ戻るぜ……ってコレ、何がどう決着すりゃ帰れんだっけ?」  桔梗介が逃げ切るまでと思っていた雅ですが、樋口主従はお山から地方へ高飛びする様子もありません。 「まさか本気で幕府を相手取ろうってんじゃ……あれ。天音を預けてる以上、俺もこっち側だ。俺も攘夷志士なのか? うそーん」  いたって平凡な人生を送ってきた雅は、急に攘夷とか言われても、漢字がモヤモヤしてしまうのでした。  その頃、斗貴と親方は吉原にいました。 「お客のことはしゃべれねえんで」  花札屋の下男と押し問答の末、ハル担当の団体客が、コスプレコースを選んだと分かります。 「そのまま店外へ……。これ以上は手がかりがないようね」 「諦めるのかニャ」 「逃げ続けてるってことに望みを持ちましょう。それより、ここにはもうひとつ用事があるの」  斗貴はまっすぐ帳場に上がりました。 「天音さんの年季証文を買いたいのですけど」 「おや、身請けしていただけるんで? まーご奇特な」 「斗貴嬢さん……!」  ヘたり込む親方に、斗貴はにっこり笑いました。 「私を土蔵から出すために体を張ってくれたのよ。この恩を忘れたら武家の名折れだわ」 「美談でございますことねえ。しめて二十一両になりますよ」 「ニャニャ、二十一両? 抱え金は二十両のはずじゃ」 「あらお父さん。天音は足抜けを謀りましてね。樋口ってお武家が保護してくださってるって、今連絡があったんですよ」  斗貴はぐっと両手を握りました。 「報奨金の分はこっちへ上乗せされるんだわ。全く、女の子を働かせて小遣いをせしめようなんて、武士の風上にも置けない……」  遣り手婆と店主が寄って、またたく間に証文が整います。 「さ、こちら。即金で願えますかね」 「いいえ」  斗貴はにっこりと首を振りました。 「私もそんなお金は持っていませんの」 「ああん? お嬢さま、難しい謎かけは御免でございますよ」 「簡単な商いですわ。私を売りに出してくださいな」 大江戸870夜町(21)  花札屋の店主が絶句している頃。  お山では、キースが華宮院に帰還していました。 「早かったわね」 「馬もらえたから」 「公使館職員の役得ね」 「……何か人増えてないか」 「キースどの」  工藤が素早く進み出ます。 「お留守の間に到着しました。ご助力いただけることになったそうで」 「したくもないご助力だがな」  泣きながら「攘夷ってどう書くんですか」と聞きに来た雅も合わせて、華の私室は客であふれています。  キースはうんざりと見回しました。 「樋口、借りは返したぞ」 「早く消えろってことだな。キース君」 「行間を読めばそうなるな」 「そっか。俺たちで赤ちゃん見てるっスよ。三十分ぐらいでいいっスか?」  たっぷり寝たハルは、気働きも冴えています。でも行間は音読しちゃいけません。 「あ、ごめんなさいっス。七夕カップルだから三十分じゃ足りないっスよね」 「……」 「えーそれで、樋口家はエゲレスに売れましたか」 「ああ。すんなり倒幕派に転んだぜ」 「よし」 「ねえ、一体何をやってるの?」  劉には点と点をつなぐ線が見えません。 「穏健派の叔父さんに倒幕運動を押しつけて、それって何かの嫌がらせ?」 「叔父貴には、お尋ね者の頭目になってもらう。忙しくて俺の命を狙うヒマもなくなるようにな」  藩内きっての穏健派、樋口和之進は、ちっとも穏健ではなかったのでした。 「どういうこと? あなたが嫡男でいられるのは叔父さんの口添えもあったんでしょ?」  桔梗介は苦々しく首を振ります。 「対立分子への懐柔策に過ぎん。家臣には元・先代派も多い。人材不足の小家ゆえ、アンチだからってなかなかクビにはできんのだ」 「ちょっと待って。対立があったの? 樋口家に? 先代のヤンチャが過ぎたってことは聞いてるけど?」 「家臣が口裏を合わせたんだ。家内騒動が表沙汰になっては、お取り潰しもあり得るのでな」 「はあー、お武家も大変ね」 「あの兄弟は、普通に権力争いをしてたのさ」  そう言って桔梗介は面倒な説明を投げたので、工藤が後を引き取りました。 「権謀術数では和之進さまがわずかに上手、このままではうまいこと暗殺されてしまうと恐れた先代は、わざと分かりやすい奇行に走って、お上の注意を惹いたのです」 「そしてお裁きの場へ逃げたのね。公権による逮捕は最強の護衛ってわけか。ふおお、つながるわ」  劉がジャーナリズム精神を活性化させる傍ら、キースは首をひねっています。 「だったら樋口、お前はどっち派なんだ。蟄居中の親父さんを引きずり出しに来たってことは、お前は叔父さん派なのか?」 「あら、叔父さん派なのに叔父さんに命を狙われちゃうの?」 「それはだな」  桔梗介は語るべきいきさつを思って目を閉じました。 「……面倒くさい」  樋口之将の奇行パフォーマンスの中に、藩金の使い込みがありました。  この金が、どんなに記録をたどっても、何に使ったのか、誰に払ったのかはっきりしないのです。  蟄居先を訪ねた桔梗介は、父親に与する態度を装ってこう言いました。 「華宮院を買収して獄舎を解放させました。もういつでも出入りは自由です。お好きな時に近隣をご遊歩ください」  顔を見せれば警備が「うっかり」してくれることを証明し、山を下りかけた所でキースに鉢合わせする、そのちょっと前のことです。  すっかり気を許した之将が言いました。 「お前にだけは教えておこう。あの金はある投資に回していてな。掘り出せれば、莫大な配当を受け取れる」 「掘り出す?」  投資とは、徳川埋蔵金の発掘プロジェクトでした。 「神君家康公の隠し財産だ。必ず出るとパンフレットにも書いてあった」 「……」 「わしとお前で慶長小判を拝もうぞ」 「しかし、年度の〆はどうします。現金がなければ、家臣らは暮らしの払いができません。うちのような小家に、これ以上の信用貸しはしないと商人も」 「そうだ、斗貴を売れ」 「……」 「あれの母親は身分が低いから、売っても武家の名折れではないわ。決して家財など売るでないぞ」  暗闇にメラメラと殺気が立ち、通りかかったキースは、つい戦闘を仕掛けてしまったのでした。 「だったらおい。俺がやったのはどっちかって言うと助太刀じゃないか」  キースがドンと畳を叩きます。 「まあそうだな」 「礼を言われてもいいくらいだぞ」 「言った。親父を殺してもらってどうもって」 「嫌味にしか聞こえん。思わず迷惑料とか払っちまったじゃねえか。金かえせ」 「そっちが勝手に払ったんだろう」 「迷惑かかってねえじゃねえか」 「大迷惑だ。やろうとしてたけどやらなかった殺しの疑いをかけられて」 「やろうとしてたのかよ」 「ちょっと。その話今でなきゃだめなの」  劉は続きが気になります。 「藩金の補填はどうなったの。妹さんは身売りしないで済んだのよね?」 「ああ。埋蔵金プロジェクトの事業者から、直接取り返した」 「事業者って……、聞いた感じ詐欺っぽいけど。よく返金に応じたわね」 「新規契約を餌に呼び出して、まあ吉澤も話せば分かる男だから」 「ヨッシーってば、詐欺もやってたのー」 「どこまで手広いの、アイツ」  抜け目ない吉澤は返金クレームなどガン無視でしたが、人海戦術で資料請求の問い合わせをかけたところ、家臣の妻女まで動員した全員野球が図に当たり、人妻スキーが釣りあげられたのでした。 「以来、吉澤さまには情報屋としてご助力いただいているんです。叩けばホコリ、いや裏の世界に精通しておられるので」  キースはげんなりとあぐらを崩します。 「どうせまた迷惑だの何だのネチネチ脅したんだろう。体のいいゆすりだな、貴様らの言うご助力って」  工藤は笑って頭を下げました。 「皆さま恩義にあつくていらっしゃる」 「それでと……、どうして命に危険が及ぶわけ」 「藩金を取り戻したせいで、藩内で若の人気が上がってしまったのです。和之進さまとしては、若と先代をぶつければ必ず大ゲンカになると読んでいたようで、目論見どおり殺害は起きたのに、華宮院が事故として処理してしまうし、調子の狂った和之進さまは」 「もー、ながーい」  陽光太夫がわしゃわしゃとポニーテールをはずしました。 「この話いつ終わるのー」 「あとちょっとです。太夫、なぜ帯をほどいておられるのですか」 「あと一分でまとまらなかったら、脱ぐー」 「どういう脅迫よ」 「あのあの、忠義顔で近づいて来る者のうちいずれが間者であるやら分かりませんので、私ひとりが若に従い、家中とは距離を取って」 「あら、ただの放蕩だと思ってたわ。嫡男の義務放棄ってことで廃嫡されたりしないの?」 「廃嫡だけでは、あちらにとっては不都合なのです。正統の男子が残っていては、何かあるたび対立派の旗印にされる」 「しっかり息の根を止める必要があるわけね。怖いわあ」 「よお、俺が監視を頼まれたカッパ会はどうなんだ?」 「それがですね、単独で華宮院を取り込まんとする和之進派の策謀かとも思われたのですが、上屋敷でカマをかけても一向に」 「もうダメ、脱ぐー」  くのいち衣装はアウターが一枚きり、あとは鎖とさらしだけです。 「太夫、安売りはダメっス!」 「売りじゃないもん。ヤリたい時にヤルんだもん。お布団敷いてー」 「太夫、まだ一分経っていませんから」  工藤は襟首をつかまれながら必死に考えます。 「ご門跡、カッパファンの集いにお心当たりは?」 「え何、カッパファン? カッパン?」  華も焦って早口になります。 「活版……、これかしら」  文机から取り上げたのは漢字の一覧表です。雅に「攘夷」の攘の字を説明しようとしたところ、華にも書けなかったのでした。  多画漢字の刷り見本には、余白に「七色活版の会」とロゴがあります。 「……七色カッパの会」 「そうそう。うちの用人頭はよく噛むの」 「では花札屋は、聞いたままを予約帳簿へ」 「時間いっぱい、そこまでよ」  劉が太夫の襟元をぎゅっと合わせ、ひそかな舌打ちが聞こえたり聞こえなかったりしたのでした。 大江戸870夜町(22)  話は、花札屋の帳場に戻ります。  斗貴はシャンと胸を張りました。 「失礼ですけど天音さんより出るとこ出てますし、あれで二十両なら私はその三倍……、いえもっとかしら」 「お嬢さま、買い値はカップ数に比例するわけじゃございませんよ」 「総合点でもそう落ちる方ではないつもりですわ」 「……ええ、ええ。それはもう」  頭のネジの飛んだ人でも応対はしっかりと。店主はそつなく営業スマイルを作ります。 「見上げたご覚悟でいらっしゃいますねえ。しかし遊女契約はもうちょっとその、頭のしっかりした方と結ぶことにしておりまして。保護者か債権者か」 「身を売ると言っても、お店に売るのじゃありませんわ」 「はいはい……はあ?」 「こういうお店はあれでしょう。お金を稼いでも横からピンハネされるんでしょう」 「必要経費ですよ。衣装代や髪結い代がかかりますんでね。お座敷へ出すにはひととおりの教育も必要ですし」 「私に経費はかかりませんわ。お城に上がれるとまでは申しませんけどそれなりのものを着ていますし、大名のお酌だってしますのよ。叔父ですけど」 「ちょっとお嬢さま。さっきから黙って聞いてりゃさ」  声を上げたのは、見世格子に座る遊女たちです。 「軽くお酌でもすりゃチップが降ってくるぐらいに思っておいでかい」  斗貴はすっと頭を下げ、格子の内へ入りました。 「大変なお仕事だと聞いてはいますわ。でも小耳に挟んだ別の話では、キャンペーンでお座敷を間借りし、イベントを打ったりする企業もあるとか」 「おや、詳しいね」 「じゃ、遊女登録なしにお座敷へ上げろって言うんだね?」 「天音さんの年季証文に見合う額を、私がお店に儲けさせればいいのでしょ?」  おつむが弱いという目で斗貴を見る者はもういません。  遊女たちはずいと膝から進み出ました。 「ああいうキャンギャルだって、腕一本でお客を楽しませてんだよ。あんたみたいな素人芸で、何年お酌すりゃ二十両になるだろね」 「やってみないと分かりませんわ」 「水揚げ権でも売り込むかい。一回勝負だけどね」 「そうとも限らないよ。コツを飲みこみゃ二度三度」 「あら姉さん、そのコツ教えて~」  話は下世話な方へ向かいます。 「ああーら」  斗貴は両手を腰にあてました。 「吉原遊女はそこらのお女郎とは違うと聞きますわ。ヤリたいだけ、コホ、欲望だけなら誰も高いお金を払ってこんなとこまで来やしません。殿方はここで夢を買うんだわ。違います?」 「ああ、そうともさ」  遊女たちはちょっと小鼻がふくらみます。 「唄・踊りはもとより古典の教養は必須だし、問われれば最新の蘭学からお公家の有職故実まで、すらすら答えて一人前だ。お嬢さまにはできない芸当だろうね」 「私だって、武家の子女として恥ずかしくない教育を受けておりますわ」 「どうせ行儀作法とかお茶お花だろ。そんなもの、ヘソで茶ーわかしながらやったげるよ」 「お茶席でおヘソ出したらつまみ出されますよーだ」 「これこれ、お前たち」  格子の外では通行人が立ち止まり始め、花札屋店主は店の品位が心配になってきました。 「遊里の教養は何たってお座敷遊びだろう。目隠し鬼に狐釣り、ジャンケンカッパ飲み」 「あら、それこそおヘソでしゃぶしゃぶしながらやって差し上げますわ」 「言ったね。勝負するかい」 「望むところだわ」 「よし」  古手らしい遊女が立ち、店主から天音の証文を取ると、ぴりっと二つに破りました。 「あっ!」 「こっちが負けたら、二十一両はあたしらで払おう。そっちが負けたら、あんたにゃ見習いかむろから遊女登録してもらうよ。きっちりピンハネされるやつをね」 「いいでしょう」  売り言葉に買い言葉で、斗貴は花札屋の遊女連とジャンケンカッパ飲みで対決することになったのでした。 「斗貴嬢さ~ん」  ひと言も言えずにいた大福親方が、すみっこで泣いています。 「嬢さんを遊郭に売っただニャんて、おいら桔梗介さまに殺されるニャ~」 「大丈夫よ親方。とにかく飲めばいいのでしょ? 私、結構イケる口ですわ」 「ほ、ほんとかニャ」 「ええ。お節句の甘酒は好きですし」 「ニャアア、うえ~ん」  同じ頃、将軍も泣いていました。 「ワシの子猫ちゃん……、今おデコにちゅーしたる……」  検問からの報告を待ちこがれ、うたた寝の炬燵で悲しい夢を見ています。 「上はん、ここどしたんか」  十和古がやってきて肩を揺すりました。 「起きやして。もうお昼どすえ」 「う……ん、愛は永遠の花火……」 「ええ加減にしゃっきりしとおくれやす。そうそ、昨日のお土産ありますのんえ」 「お土産? あー、また新しいお小姓かいな」  将軍はあからさまにウザそうです。 「ワシ調子悪い言うてるやんか」  十和古は構わずお茶を勧めます。 「そない思てうち、昨日から新人はんのHP下げときましたんえ」 「へー、ずずず」 「体力測定や言うて、腹筋腕立てスパーリング。へとへとなって、今もまだ寝てはるのん」 「ふーん」 「ぐったりしてるとこを襲うのもまた乙なもんどすやろ。いかが、おめざに」 「はふーん。せっかくやからいただくけども」  将軍はため息ついでに湯呑みをふうふうします。 「やっぱり調子悪いわ。連発六尺玉は無理やなあ。せいぜいロケット花火や。ああ、調子悪いわー」 大江戸870夜町(23)  その頃、吉原は花札屋のニュースで持ちきりでした。 「飲み比べで女の対決だってよ」 「遊女にケンカ売ったってのが、何でも頑固な武家娘らしいぜ」 「まさか」  清十郎が凍り付きます。斗貴の足取りを追い、癒着横領のツテを利用しまくって、吉原にたどりついたところです。 「おおい! お嬢さん! お嬢……!」  花札屋の見世格子あたりはすでに押すな押すなの人出でした。 「お嬢さーん」 「頑張れー」 「どっちが勝つかな」 「俺は姉御だ」 「そんなら俺は武家娘」  賭博合法のご時世、あちこちで賭けが始まります。 「おーい花札屋、お前んとこで胴元やれー」 「かしこまり。喜んで。ハルさーん、手伝ってくださいよ。この大事な時にどこまで営業に行ったんだか」  メーカーには事後承諾で協賛を頼むことにして、仁科の樽酒が開けられました。 「じゃんじゃんヤカンに汲み出しておけ。あの様子じゃ、どっちも飲むぞ」  店主の視線の先で、斗貴はチェイサーに甘酒を要求しています。 「フニャッ! 斗貴嬢さん、お水にするニャー」 「だって、飲み慣れたものの方が」  言ってるうちに、一回戦が宣言されました。 「ジャーンケーン、ほいっ」 「カッパとお菊。武家娘の勝ちー」 「ジャーンケーン、ほいっ」 「キュウリとカッパ。また武家娘の勝ちー」 「ジャーンケーン」  ココイチにツキのある斗貴が、まずは三連勝します。 「お皿ちょうだいしましたー」  相手の飲んだ盃が頭上に乗っけられ、しらふなのでまだ余裕はあるはずですが、斗貴はびくびくとバランスを確かめました。 「おや、安定が悪いねえ。びびってんのかい?」 「いいえ。まだまだ飲ませて差し上げますわ」 「かけつけ三杯だ。このウツボ姉さんのアルコール分解力をおなめでないよ」  ジャーンケーン、ほい。  ぐびぐび。  ジャーンケーン、ほい。  ぐびぐび。 「今日は絶好調だ。水みたいに入ってくよー」 「さすがのうわばみ」 「こりゃあウツボ姉で決まりかな」  賭ける江戸っ子たちも真剣です。 「武家娘もなかなかのタマだぜ」 「プロ対素人の一戦でプロに賭けるなんざ粋じゃねえしな」 「粋じゃねえ」 「さあ、張った張った。ウツボ姉御か武家っ娘か」  胴元はギリギリまでベットを受け付けており、甘酒を離そうとしない斗貴の人気がジワジワと上がります。 「ニャニャ、斗貴嬢さん、勝ってるんニャからセーブするニャよ」 「だって、舐めてると落ち着くんだもの」 「ううむ。ありゃ酒豪だ」 「おカタく見せといて、粋だねえ」 「粋だ粋だ」  人々がいきいきしてる間にもウツボ姉さんは負け続け、すっかり出来上がっていきました。 「ういー、苦労知らずのお嬢さま。あたしが世間てもんを教えてやるよ」  ぐびり。 「家財でも着物でも売っとばしゃ、二十両ぐらい作れないこたないのさ。だけどね、身内って案外冷たいもんだよ」 「それを言われるとツラいニャッアッア……」  親方がむせび泣いています。 「ありったけ質に入れても、まだあと二十両足りニャかったンニャッ……高級ひのきと間違えて高級かつぶしを仕入れちまってッ……材木の目方で注文したからえらい額にッ……ニャンともかつぶしパラダイスッ……」  えぐえぐと涙を拭う親方はヨダレもすすっています。 「親方、食べたんですね」 「贅沢食いでちょびっとずつかじったら、返品きかニャくてッ」 「ほらね。男なんて、状況次第で自分の都合を優先させるのさ」 「……そうだわ、叔父上も手のひらを返すようだった。穏健派なんて嘘だったのかしら」  斗貴は兄弟の確執を知りません。しょうもない兄弟ゲンカをズバリ「しょうもないわね」と言ってしまいそうな斗貴は、終始騒動から遠ざけられていたのでした。 「男なんて、ばーっか野郎」  ウツボ姉さんはますます調子が上がっています。 「あっちにもこっちにもいい顔してんのさ。姉さんタイプっス~なんて言っといて、若いコんとこへも出入りしてるのは知ってんだから」  見世の端でビクっとしたのが海老ちゃんです。 「男なんて、どうせ何だってタイプなんですわ」 「あら、分かってくれるかいお嬢さま」 「分かりますとも。近習べったりと思っていたらちゃっかり吉原にも出入りして、兄上ったら」  いったん愚痴のゲートが開けば、あれもこれもと引き合いに出すのが女子飲みです。斗貴はがぶりと甘酒をあおりました。 「パスワードだってそうだわ。一度聞いたら忘れないような恥ずかしい文句にしてあげたのに、兄上ったらメモを保管してたのよ。私の言うことなんか頭に入れる気もないんだわ。八文字くらい暗記してよね」  お兄ちゃんが一生の宝物にしていた「あにうえだいすき」は、招き猫貯金箱の開錠パスだったのでした。そんなことより。  ジャンケンの勝率は、必ず五分に近づきます。 「ウツボ姉御の勝ちー」 「……ふう」  二敗を喫し、斗貴は危なっかしく飲み干しました。 「辛口ってやっぱりカレーとは違うわね」 「ゴニャアアア、斗貴嬢さーん」 「心配しないで親方。いざとなったらこれで何とか、ね」  斗貴はフラフラしながら頭のかんざしを示しました。  ウツボ姉さんが立て膝をパンと払います。 「あんた、いざとなったら誰かが助けに来てくれるとか、甘いこと考えてんのかい」 「男なんて当てにしません。自分の才覚で切り抜けますわ」 「へえ」  ウツボ姉さんはすいと立ちました。頭の盃は小揺るぎもしません。 「あんたの切り札ってこれかい」 「ああっ」  盃を気にした斗貴は、あっさりかんざしを奪われました。 「ふーん。昔、見習いだった頃に見たことがあるよ。異国帰りの男が見せびらかしてた錠前開けだ。ユーの心の鍵もジョンが開けちゃうぜとか言って」 「万次郎さま、帰国してまずは吉原で豪遊?」 「あたしにゃ楊枝ひとつくれなかったくせに、あんたにはこんなプレゼントしてたんだ」 「もう、男って」  何となく面白くない両者です。 「えーい、こうだ!」  ウツボ姉さんはかんざしを表へ投げました。格子の外は黒山の人だかりです。 「おおっと、キャッチじゃ」  最前列でかんざしを受け止めたのは、ちりめんじゃこ問屋・越智屋のご隠居でした。 大江戸870夜町(24) 「む、これは……」  ご隠居はかんざしをつくづくと眺めます。 「昔持っとったピッキング棒に似とるのう」 「まあ」  斗貴は格子のそばへにじって行きました。 「おじいさん、なぜ正式名をご存知なの?」 「トモダチのジョンとペアで作ったんじゃ。アメリカでは先住民に間違えられて投獄されることが多くてのう。これで華麗にプリズンブレイクを」 「そのくだり、聞き覚えがありますわ」  アメリカで出会った二人は、東廻りと西廻りでどっちが先に日本に着くか賭けをしたのでした。 「ふぉっふぉっ。ジョンが子供の頃の嬢ちゃんにこれをやったということは、賭けはジャックの負けじゃな」 「誰がジャックですか」 「わしわし。じゃこ屋のジャックじゃ」 「夢かしらこれ」  シュールな展開に、斗貴はかすむ目をこすりました。 「ええと、じゃこ屋さんがそもそもどうしてアメリカに?」 「じゃこ網を上げに船を出したら嵐に逢うてのう」 「まあ」 「水戸から黒潮に乗ってカムチャツカからアリューシャン、アラスカを経てサンフランシスコに漂着したんじゃが」 「丈夫な船ですわね」 「金門橋でぶっ壊れたわい。河口で途方に暮れとる時にジョンに会うたんじゃ。ちょうどゴールドラッシュじゃと教えてもろうて、じゃこ網を砂金さらい網に改造し、一緒に川をさらってのう」 「はい」  シュール要素も飽和状態となり、もう斗貴は無抵抗です。 「捕鯨船に便乗するっちゅうジョンを西海岸で見送って、わしはアメリカを横断して大西洋からヨーロッパ経由、ロシアから砂漠のキャラバンで中東そしてアジア」 「地球は丸かったんですね」 「道中トモダチも増えたわい。これはロシアのツルゲーネフ君」  ご隠居が親指で指さし、お供がぺこりと頭を下げます。 「鶴さんとお呼びください。思想犯なもので」 「そしてスペイン船員エスカメーリョじゃ」 「亀さんで結構。逃亡奴隷なもので」  彫りの深い番頭風と、地黒の遊び人風な鶴亀コンビは、二人とも町人髷がしっくり似合っています。 「従者らしく伏し目がちにしとれば目の色は分からんし、ストパーと毛染めで何とかなるもんじゃ。カーッカッカ。さて、わしは嬢ちゃんの負けに張ろうかの」  言うだけ言って、ご隠居は花札屋ののれんをくぐりました。 「さすがお目が高い。ウツボの方はオッズも上がってございますよ」  店主がいそいそと座布団をしつらえます。  ご隠居は上がりかまちにちょこんと座りました。 「さてさて、自由に賭博を楽しめるのも今のうちじゃからのう」 「というと?」 「お上は賭博合法の撤回を検討しとるそうじゃ。やっぱり規制は必要なんじゃろのう」 「また法令が変わるのか」 「コロコロと面倒くせえなあ」 「まあまあ。悪いことは悪い場所にまとめておくのがええんじゃよ。謁見控えの間で仲良うなった大名も、そう進言したそうじゃ」 「じいさん、お目見え身分かい」 「おやご隠居さま、チキンレースでご登城なさるってお話はご冗談でしたんで? まあま、すっかりだまされた」  お目見えセレブと昵懇なのをアピールしたい店主は、すかさずキセルを勧めます。 「はっは。観光疲れで普通に謁見したわい」  ご隠居は調子よくパッパと吸い付けました。 「上さまに世界周遊の知見をご披露してのう。アメリカだけ見て帰ったジョンが、今では幕府の通商アドバイザーじゃという。わしだって」 「張り合うねえ」 「諸国漫遊のスケールがでけえや」  江戸っ子たちも感心しきりです。 「そうそう、ついでに遊女の年季契約の全面撤廃をプレゼンしてきたぞい」 「は……?」  ご隠居は、コンッと吸い殻を落としました。 「一度契約したらなかなか完済させない遊女の年季契約は、商取引の精神を逸脱した悪質な奴隷売買じゃ。奴隷制は世界的に廃止の方向へ進んでおる。南部の大農場主から農業政策の舵取りを奪い返すには、奴隷を使えなくして生産コストを上げてやりゃええと、リンカーン君にも言うてやったもんじゃて」 「……リン、誰?」 「今頃は大きな男になっとるはずじゃ」  小説でロシア農奴の苦境を訴えた鶴さんは投獄中に、船奴隷だった亀さんはスペインの商船から、いずれもジャックの手で華麗にプリズンブレイクを果たしたのでした。 「上さまの側近にも異人がおって、“オー、リンカーンまじすごいネ。ヨッ大統領”とか言うてくれたもんで、すっかりわしの株が上がってのう。上さまにはその場で年季契約の撤廃をご確約いただいた。お布令が出るのは先じゃがの」 「へえ……」 「そういうわけで、嬢ちゃんは安心して負けてええぞい。なんせ契約手法自体がなくなるんじゃから」 「そう、ですわね……えーと?」  江戸っ子たちはハタと我に返りました。 「待て待て。じいさんは武家娘の負けに賭けてんだ」 「こいつはテコ入れだぜ」 「八百長だ」  一気に不穏な空気が流れます。 「安心して負けろたあ、汚ねえぜジャックさまよ」 「川から金がザクザクだあ?」 「ホラに決まってら」 「おや、夢がないのう。本当なのに」 「けっ。こちとら埋蔵金発掘プロジェクトでイテえ目見てんだ」 「だまされねえぞ」  吉澤の被害者が結構いたようで、群衆が騒ぎ始めます。店主はベット窓口を強制クローズしました。 「困りますねご隠居。店の、いえ吉原全体の出入り禁止にさせていただきますよ」 「従業員の証文が無効となれば、吉原自体がのうなると言うとるんじゃよ」  自分は思い残すことなく豪遊したので、ご隠居はサッパリしたものです。 「海老ちゃんも小鶴ちゃんも、稼いどる人気遊女はこぞって足抜けじゃ~、ふぉっふぉっふぉっ」 「賭けはどうなるんでえ」 「おい花札屋。勝負をキャンセルすんのか」  遊里がなくなると聞いて、店主は真っ白になっています。  群衆は勝手勝手に騒ぎ出しました。 「キャンセルだ? 冗談じゃねえ」 「こんだけの賭けが動いてんだ」 「お嬢さんも観念しな。プライド賭けた勝負だろ」 「遊女んなったら俺が通ってやるからよお」 「俺も俺もー」  ご隠居の話が届いていない男たちも加わって、下卑た野次が飛び交い始めます。 「ちょっとヤバい感じだね。通りへ出な、蛸八、鯨丸」  ウツボ姉さんが海チームの用心棒に指示を飛ばしましたが、往来はすでに暴動寸前です。 「俺たちで源氏名決めようぜー」 「所属は海チームなー」 「武家娘は手入れが雑そうだから……、鮫肌ちゃんなんてどうだー」 「いいぞー」 「失礼ね、私すべすべです……!」  裏声で叫ぶと同時に、斗貴はぐらりと重心を失いました。  そのとき。 「ちょっと待ったー!」  人混みからハルが飛び出ます。 「その勝負、続きはこの方が引き受けるっスー! はい登場!」  キュー! という身振りにつられて人垣が割れ、現れたのは仏頂面の陽光太夫でした。 「はあ。煙草くさーい」  急ごしらえの花魁衣装は、桔梗介が着たコスプレの再利用です。  群衆は顔を見合わせました。 「一体何でえ」 「こりゃつまり……」 「そう、助太刀ッス! うぶな武家娘を見かねて、ジャンケンカッパ飲みチャンピオンが華麗に立ち上がったっスよー!」 「おおー!」 「粋だねえー!」  ハルの大振りが江戸っ子のツボにクリーンヒットします。  陽光太夫は人垣の花道を通り、格子の前でウツボ姉さんと対峙しました。 「キャンギャル風情が、勝負に水を差そうってかい」 「あー、自信がないならいいけどー?」 「フン、おふざけでないよ」  ウツボ姉さんは勢いよく裾を割り、ドンと格子に足をかけました。 「今日はえらく調子がいいんだ。チャンピオンの座はいただくよ!」 「わあー!」 「いいぞー!」  賭けは再び活気づき、我に返った店主は、慌ててベット窓口を再開しました。 「やっぱり夢かしら、これ」  ホロ酔いの斗貴はフラつきながら後ずさりました。カシャカシャッと盃が崩れ落ちます。 「斗貴さま、斗貴さま」  どこかから声がして、斗貴がキョロキョロと見回すと。 「まあ工藤さん。お店の中にいらしたの?」 「潜入は地味侍の得意技ですので」  樽の後ろから現れた工藤は、身を低くしてにじり寄りました。 「ジミーズだけで検問の様子を探りに来たら、花札屋の騒動を聞きつけまして」  雅がお山に取って返し、キースの馬をぶっ飛ばして、太夫とハルを連れてくる間、工藤が店に張り込んでいたのでした。 「ここで従業員に紛れて、ヤカンにこっそり水を混ぜておりました」  しかしどのヤカンが斗貴に渡るかまでは分からず、工藤は仕方なく相手方のヤカンも水で割っています。 「道理で。ウツボさんには本当にお水みたいなものだったでしょうね」 「勝負のお助けにはなりませず。せめて急性アルコール中毒にならぬようにと」 「まあ、ありがとう工藤さん」  工藤は首を振りました。 「ある御仁に頼まれたのです。その強烈な地味を見込んで頼むと往来ですがりつかれまして。お名前は清十郎どの。お知り合いでしょうか?」 「いえあの、……さあ」  斗貴は畳にのの字を書いています。 「大層ご心配でしたよ。店の内部には詳しいが、ご自身は界隈に顔が売れすぎているとか」 「ああ」  のの字がザックリと畳をえぐります。 「吉原の有名人なのね。そんな方は存じません」  切り刻まれる畳の惨状に、工藤は清十郎の慌てぶりを思い出しました。 「違えって。スムーズな聞き込みのためには門番や下男に顔つなぎをだな、そりゃまあ時にはいい目も見るが、いやそのだから……」  ザクリ。ザクリ。 「おいしいお役目でよろしいことね。あーあ、誰だか知らないけど」 「私に言われても困りますので。お二人とも」  遠くでわあっと歓声が上がり、陽光太夫とウツボ姉さんが、ジャンケンポジションで身構えました。 大江戸870夜町(25)  吉原がジャンケン対決に沸いている頃。  エゲレス公使館に、密書を抱えた猛禽ロボが飛来しました。  あぶり出しをあぶるエージェントの顔色が変わります。 「公使閣下、エド城で革命です!」 「何だと?」 「本丸は、すでに革命側の手に落ちた模様です」 「樋口家が先走ったのか?」 「いえ、一介のお側用人による単独決起とあります」 「聞いていた倒幕シナリオと違うぞ……!」  公使がパニくる間にも、カラスロボ、燕ロボと続報が届きます。 「用人は素手でショーグンを襲撃。タイプってお前のタイプかよー! と謎のスローガンを叫んだそうです」 「殺害したのか」 「いいえ。ボコったショーグンをまたいで去ったのち、オーオク女子部へ居座ったそうです」 「後継決定権までも掌握したというアピールだ。練り込んだシナリオを持った勢力のようだな」 「こちらも方針を練り直す必要がありますね」  トップのすげ替わった政権は、外交態度をどうひるがえすか分かりません。  駐在員の安全を考慮して、エゲレスのみならず外国船は、こぞって日本から出ていったのでした。 「急展開だったわねえ」 「えーそうかな♪」  吉澤は仮面のような猫かぶりスマイルです。  劉は舌打ちしてホワイトボードに向き直りました。  ここは劉のオフィス、「お江戸の歩き方」編集部です。  朝寝を襲われた吉澤がホモ将軍を半殺しの目に合わせてから、勘違いのクーデター報道に外国勢は緊急出国したわけですが、吉澤が大奥を食い散らかしているあいだに、 「それでー、新生日本の代表者はどなたになりました?」  と恐る恐るの問い合わせがあり、 「へえ、うっとこの八千菊丸どすけど」  と十和古局が勝手に出しちゃった声明を誰も訂正しないもんだから、なんとなーく倒幕が成立した流れのまま、横から出てきた八千菊丸が手柄総取りで帝を江戸にお連れして、元号も明治と改まり、成り行きでスタートした新時代が、何とか軌道に乗って今に至る…… 「ってわけね。ひー」  予備校講師より速く、劉はホワイトボードに書き殴っていきました。 「何なの、このムチャ展開」 「まあまあ。大政奉還ってことで♪」 「もっと色々あってから終わるんじゃなかったの、徳川の世って」 「まあまあ。日本史がラクになって助かるってことで♪」  吉澤は情報屋としての契約期間が残っているというので劉に首根っこを捕まえられ、独占インタビューに応じています。 「聞きたいことはたくさんあるけど、まずは」  キュキュキュ、と「徳川 豊茂家」に二重線が引かれました。クーデターに倒れた、徳川のラストショーグンです。 「コイツはどこへ消えちゃったのよ。公式には出奔としか発表がないけど」 「旅芸人の一座を組んで全国興行に出たんですよー。江戸じゅうを検問しても見つからなかった、愛しの三白眼侍を探してね」 「んまあ、将軍の地位をなげうって。相当なご執心なのね」 「尋ね人はスタート地点にいるんだから、こりゃ一生会えませんねー♪」  江戸市と改称された首府では行政も一新され、華宮院で知り合った攘夷志士が出世していました。 「あんときの樋口さんかー!」  感動の再会を果たした桔梗介は、返してもらった羽ばたき1号で自転車通勤(一部空路)する、いっぱしの政府職員になっています。職場は元の江戸城です。 「では地方に偽の三白眼侍出没情報をバラまけば、さらに足は遠のきますね」 「アンタも性格悪いわねえ」  同じく役所づとめで洋装の工藤は、ホワイトボードを書き写しながら難しい顔で首を振りました。 「あまり大っぴらな妄執を政府職員に向けられては、反政府運動の契機にもなりかねませんから」 「いい加減に陰謀スイッチは切ったらどうなの。幕末の動乱は過ぎ去ったのよ」 「劉さん、まだまだ世間は不穏ですよ。どこかの誰かがやりかけの武力革命を丸投げして自宅に帰ってしまったものだから、自分にもチャンスがあるんじゃないかと夢広がる輩が後を絶たず」 「頼もしいことじゃないかー♪僕ももっかい政府転覆して、好きな年号に変えますよ。明治なんてダサすぎ。人妻元年とかどうかな。緊縛元年とか」 「私がクーデター起こすわ」 「陰謀スイッチと言えば、劉さん」  お茶を並べているのは冬成です。 「あの陰謀はどうなったんでしょう。キースさんを雇って、華さんの父上である将軍を暗殺させた黒幕は一体」 「懐かしい話ね」 「そうだな」 「だーあ」  華もキースも混血の赤ん坊を連れてどこでも出歩けるようになっており、狭い編集部にはなんやかんやで関係者がゾロゾロいました。 「今さら気にもならんが」と桔梗介。 「ヤクザ連合の報復だったってことに落ち着いたでしょー?」と陽光太夫。 「いや、実は十和古局が糸引いてたんじゃないんスか」とハル。 「だよな。その後の一人勝ちっぷりからしても」と雅。  倒幕の陰の立役者である吉澤がとうとう泥を吐く、もといインタビューを受けるというので、皆こぞって見物に来ているのでした。 「ホウホウ、新事実どっさりネ」  浅黒い肌の女もいます。 「こちらはどなた」 「クレオさんですよー♪大混乱の江戸城で、唯一外国との通信窓口になってくれてたんです」 「京ことば分かりづらくて、十和古には自分で通信文書いてもらったネ。それをみみずくソフトが超訳」 「あんたか。トンデモ声明がまかりとおっちまった原因は」 「総員退避命令で出国なさらなかったのですか?」 「日光東照宮の彫刻にハマったネ。陽明門を完コピするまでは帰国しないヨ」  わあわあうるさい中、劉は目を閉じて精神を集中させました。 「十和古局……確かにそうね。文句言う奴は先の将軍みたいにぶっ殺すわよっていう言外の脅しが効いたからこそ、クーデター直後のゴタゴタをああもすんなり掌握できたんでしょうし」 「いや、疑心暗鬼の幕僚が勝手にビビッただけだろう。威嚇のために、十和古局がやってもいない将軍暗殺を利用することは大いにあり得る」 「あーなるほど」 「だから、やっぱり本ボシはヤクザ連合なんでしょー?」 「それも怪しくなってきてるのよね」  華はじっと宙をにらんでいます。 「考えたら、ヤクザは匿名の報復なんかしないのよ。タマ取ったのがどこの誰かを広く世間に知らせるものだわ。そのための報復だもの」 「将軍とったどーって声明なんか、誰も出してねえもんなあ」 「じゃあやっぱり」 「振り出しに戻ったわね」 「真実は闇の中か……」 「そういえば、お宅んとこの陰謀はどうなったの? 樋口さん」  四民平等の世なので、劉はドキドキしながらのさん付けです。 「叔父さんとの確執はその後?」 「ああ。片が付いた」 「片付けたってまさか叔父さんを」 「殺っとらん」  混乱の中でエゲレス公使との音信は途絶え、せっかくの英断がカラ振った和之進はすっかり人望を失って、大名から横滑りの県知事として静かに暮らしています。小県なのでいずれ大きいところに吸収合併されるでしょう。 「新政府でのポストを回してやれば、旧叔父派もみんな若さまに付きそうね」 「フン、おべっか使いに訪ねてくる奴がうるさくてかなわん」 「樋口家もすっかりご大家ねえ」 「そうだ。まだきちんとお礼を申し上げていなかった」  工藤は武家の作法で拳をつき、腰から頭を下げました。 「太夫、あの折は助太刀をありがとうございました。酒豪対決が盛り上がったおかげで、樋口家の名が出ずに済みました」 「あー、ジャンケンカッパ飲み? まあチョロい相手だったわー」  水で割っていない原酒ではいくらももたず、ウツボ姉さんはドウと前のめりに倒れたのでした。 「いいんだ……、最初の酒が薄めてあったのも、分かってたよ」 「ウツボさん!」 「あたしを勝たせようって店側の演出だと思ってた……しょうもない女だね」 「そんなことないわ! 体を張ってお江戸を盛り上げたんでしょ、あなた立派よ!」  ぐったりしたウツボ姉さんを斗貴が抱き起こして江戸っ子は拍手喝采、賭けに買った者が大盤振る舞いの酒宴を張って、一大酒豪対決は熱狂のうちに幕を閉じたのでした。 「危ないとこだったわよ。あれだけの賭けが流れたら、熱しやすい江戸っ子は打ち壊しどころじゃすまなかったわ」 「うふ、私のおかげよねー」 「あんたは美味しく酒飲んだだけでしょ」 「お礼はないのー?」 「礼なら言った。今。工藤が」  桔梗介は省エネのカタコト返答です。 「ぶー。ひとには行為で恩義に報いさせるくせにー」 「そーだぞー。礼言った以上責任取れー♪」 「お前に任せる。工藤」 「は。私にできることでしたら」 「体ひとつでできることよー」 「週末なら体が空いております。お役所づとめですから」 「ホントに? 休憩じゃなくてよ。泊まりでよ」 「たっぷりコースで結構です」  工藤は覚悟を決めたように内ポケットを確かめました。 「軍資金もありますし」 「やん、お金なんか取らないわよ! くれるっていうならもらうけどー」 「ちょちょ太夫」  ハルが有頂天の太夫に取りすがります。 「ダメダメ、売りはダメっス~」 「自由恋愛よ。ちょっと金銭が介在するだけー」 「だから、金銭授受が発生しちゃダメっス。うちとの契約違反っス」 「何それー?」  ハルはごそごそと懐を探り、契約書の控えを取り出しました。 「契約要旨の第三項っス。甲は乙に対し専属的なタレント業務を行い、その条件として左記の取り決めを……」 「んあふ」  長文を聞くと瞬時に眠気に襲われる太夫は目をショボつかせます。 「何が自演乙って」 「違うっスよ。太夫は仁科酒造の専属っスから、勝手にタレント活動しちゃダメってことっス。無銭飲食の借金を完済するまでは、うちの方針で活動してもらうっス。枕営業なんか絶対ダメ!」 「あーなんか、ハイ」  びしっと書面を突きつけられ、太夫の返事は棒読みです。  工藤はいそいそと財布をしまいました。 「残念ですね。指名ノルマのお手伝いならいくらでもしたのですが」 「いや、お金はナシでもいいんだけどー。フツーにヤるだけでー」 「いえいえ、それではお礼になりませんから」 「私がいいって言ってるのー」 「いえいえ、こちらの気が済みませんので」  劉がそっと太夫をつつきます。 「気づきなさいって。やんわり断られてんのよ」 「ではでは、またの機会に」 「いつよそれー。機会ならいくらでもあったじゃん。布団部屋じゃ全力で拒否られたしー」 「あの時は持ち合わせが。逃亡資金を確保しておくため、常に切り詰めていたものですから。今ならたっぷりコースでもお支払いできるのに、残念だ」 「アンタ、どうしても金を払いたいのね」 「金銭ずくの関係が、一番厄介が少ないので」 「難儀な男だこと」 「公娼吉原は公的機関だけあって料金システムが明朗でした。コースによっては割高ですがそれも安心料のうち」 「あら、詳しいじゃない」 「帳簿を見たもので」 「じゃー吉原ならいいのね。諦めないわー」  陽光太夫は拳を握りしめています。 「待ってて。ここ完済したら転職するからー」 「あら、吉原はもうないわよ。遊女の年季契約がなくなったんだから」  あっちゃこっちゃしまくる政権委譲期の混乱を最小限に抑えるため、ほとんどの政策はそのまま引き継がれています。遊女契約の撤廃も、賭博取り締まりの復活も、公式の謁見で許可されたものである以上、スムーズに施行されました。 「吉原跡地じゃ、あのご隠居が飲食業を始めるそうよ」 「あ、ヘソ出ししゃぶしゃぶっスよね。仁科酒造にもイベント協賛の打診が来てるっス。ヘソ出しユニフォームのお披露目イベント」 「うちでも特集組むわ。開店前からすごい評判よねえ」 「わ、ウェイトレス名鑑。見せてくださいっス~」 「レベル高いコばっかりよ」 「パートの人妻いるかなー♪」  はなまる屋のプレス向け資料は男子に引っ張りだこです。 「元人気遊女もけっこういるぜ。じいさん、抜け目なくヘッドハントしたな」 「花札屋をまるっと買収したからはなまる屋だそうよ」 「ウェイトレスって、直球の娼婦よりこう、アプローチ次第でお得なことになりそうでイイんスよねー」 「安全志向の公務員に、この醍醐味は分からないだろうねー♪」 「もーおじいちゃんのばか。商売女ならくどりんとヤれたのにー」 「太夫、私の評判が最低です」  商売女でないならヤらずに済むことになったようで、ひとまず胸をなで下ろす工藤でありました。 大江戸870夜町(26)  大人の会話から弾かれた冬成は、ひとりホワイトボードを眺めていました。 「すごいスクープになりそうだなあ。劉さん、裏取り手伝わせてくださいね」 「裏取り? んなもの必要ないわよ」 「でも」  冬成は疑わしそうに吉澤をチラ見ます。 「あんまり信用できる情報ソースじゃない気がするんですけど……」 「あら、何のために樋口さんに来てもらったと思ってるの」  壁にもたれている桔梗介は大刀のつかから手を離さず、射程距離内の吉澤には抜刀のプレッシャーが十分伝わるのでした。 「政府職員が、廃刀令を何だと思ってるのかなー」 「礼装としての帯剣は許されている」 「ぶった斬る気マンマンのくせにー」  表情は動じない吉澤ですが、常に逃げ場を探っており、結果どうでもいいことまでペラペラしゃべります。 「このお口が言うことなら、全面的に信用できるわ」 「僕はいつだって善意の固まりですよー。ホモ将軍にシンデレラの身元をチクることだってできたのに、黙っててあげたじゃないですかー」 「おちょくって遊びたいからでしょ」 「切り札を残しておくのは、フリーランス情報屋のたしなみですよー」 「あれ、ゴメンしたネ」  クレオがきょとんとしてお茶を置きました。 「ホモ将軍に、連絡取ってしまったヨ。三白眼の彼氏発見したヨーて」 「ええっ」 「クレオさんとやら、連絡とはどのように?」  クレオが懐をもぞもぞすると、マジシャンのように伝書鳩ロボが飛び出します。使い切りタイプの量産型です。 「新作フィギュアのご案内ついでに、お江戸の近況書いたネ。お得意さまだカラ、常宿の私書箱教えてもらってるヨ」 「どこの宿場だ」 「急いで回収すれば間に合います、若」 「奴ももう一介のホモでしょ。襲われてから応戦すればいいんじゃないの」 「そんなわけにいくか」 「ラストショーグンの動きに旧幕臣が便乗したら、そのまま挙兵につながりかねません」  焦る樋口主従の注意がそれたそのとき。 「じゃ、僕はこれでー♪」  スルリと間合いを抜けた吉澤は、あっという間に事務所を出て行きました。 「くそっ」  工藤が窓に飛び付きますが。 「……尾行班がやられました」  点々と倒れた政府職員をまたいで、吉澤の後ろ姿が路地に消えます。 「ナニこの緊迫感ー」 「吉澤さんって、倒幕の英雄だったんじゃないんスか?」 「激烈重要参考人として手配中です。何しろ行動の目的が分からない」 「アイツに目的なんてないわよ」 「邪魔したな」  慌ただしく出て行きながら、桔梗介はココンとボードを叩きました。 「劉、このネタだが」 「分かってるわよ」 「記事にするのはこちらの許可を待ってもらうぞ」 「はいはい」 「助かります。いずれ何かの形でお礼を」  工藤が差し出した公安の名刺を、劉はうさんくさげにつまみました。 「期待しないで待ってるわ」 「そういうわけで、皆さんにも監視が付きますので悪しからず」 「おい、サラッと何だって?」  スネにいっぱい傷持つキースは敏感です。 「ほんの形式上のものですから。江戸を二日以上離れる際は当局にご一報を」 「なあに、くどりんって束縛するタイプー?」 「激烈重要参考人の発言内容は厳戒最高極大機密です。皆さんが轟天絶大超高度機密に触れた事実は記録されてしまいました。もちろんオニA級激ヤバ悶絶機密の内容は他言無用に」 「おい、これ以上ヤバいこと聞かねえうちに帰ろうぜ」  面白話を聞きに集まったつもりの野次馬たちは、蜘蛛の子を散らすように帰っていきました。 「何なんですあれ。そりゃ取材を手伝ってもらいはしたけど、あの人たちにスクープを止める権利なんてあるのかなあ」  にわかジャーナリストの冬成は憤慨しきりです。 「ある程度の妥協はやむなしよ。ネタが危険すぎる場合はね」 「危険?」  劉はピラピラとホワイトボードを指さします。 「政権委譲の各段階で、手続き上の不備がありすぎるのよ。これじゃ徳川はいつだって幕政復帰を宣言できちゃうわ」 「でも、それが事実なんでしょう? ジャーナリズム精神に照らせば、公表するのがスジでは」 「政府転覆を狙う輩が飛びついて来そうでヤなの。公安連中の警戒っぷりを見たでしょ」  冬成も素直にうなずきます。 「ほんの少しのスキが命取りになるって感じでしたね」 「新政府の屋台骨は相当ヤワよ。それを確かめられただけでも今日は収穫だわ」 「化かし合いだなあ」  劉はホワイトボードをぐるんと裏返しました。 「本当の独占スクープはここからよ。コイツを叩き台にして、新政府のイカサマっぷりを暴いていくわ」 「劉さん、カッコイイ~」 「でコレは何」  ボードの裏面に残っているのは、以前冬成が立てたプロットです。 「将軍暗殺の黒幕は、反抗期の娘?」 「あ、それは事実をもとにしたフィクションですから」 「変名にしたって丸分かりよ。華が花ってまんまじゃない。とーやまのキースさんとの濡れ場なんて、訴えられるわよ」 「大丈夫です。非売品ですから」 「非売品でもダメなもんはダ、……売らない本を作るって何よそれ? 版元はどこ?」 「うちの販促ノベルティなんです。ワンカップ仁科の6本パックを買うと官能黄表紙がついてくる」 「どういう商売なの」 「割とウケてるんですよ。キッチンドリンカーの奥さまから家飲みの腐女子まで、嗜好に合わせて韓流だーBLだー、大奥ものは永遠の定番ですし」 「盛り込みすぎてえらいことになるんじゃ」 「終わらない大長編になってます。そこがコレクション心をくすぐるんだって父さんは応援してくれて」 「いい親父さんじゃないの。それでアンタ、次から次へネタが尽きるのね」 「劉さんの取材にお供できて、助かってます」 「ご一新ネタは封印しとくのよ。ふーむ」  劉は相関図に見入っています。 「全くのフィクションのつもりで事件を眺めてみるのも面白そうね。新たな切り口が見えてくるかも」  相関図をたどる指がふと止まったのは、お金と殺し屋を結ぶ矢印です。 「ここで支払われた額が百両。将軍暗殺の報酬が百両って、小説のリアリティとしちゃ少なくない?」 「そうですか? 僕には大金ですよ。天音さんの身売り額が確か二十両でしたし」 「でも、江戸城中での殺しなのよ。入念な準備が必要になるわ。手数料込みで、少なくとも千両はくだらないはず」 「おー、千両」 「そして伊賀の里にそんな大金があったら、お金大好きっ子が嗅ぎつけるに決まってるわよね」 「確かに」  あたふたと書類ボックスを開けた冬成は、未整理の取材メモをぶちまけました。 「仲介料ってことで、途中でごっそりピンハネされたのでは? 実行犯ってそういうものでしょう」 「下準備を伊賀者がやったんなら手数料は伊賀の取り分だけど、伊賀者はお城のことを知らないのよ」 「あ、陽光太夫も言ってましたね」 「侵入ルートを調べ上げた別の誰かがいるのかしら。聞き上手の太鼓持ちじゃあるまいし。んん……?」  劉は床を見つめて立ち尽くします。 「ナチュラルボーン聞き上手にはひとり知り合いがいるわね……」 「に、兄ちゃんが何か?」 「江戸城侵入ルートを知り得る立場……、賭博合法化で困るのは何もヤクザだけじゃない……」 「あの、兄ちゃんはただの女好きですけど」 「ちょっと整理するわよ。伊賀者が監視バイトを請け負ってた賭場には、たいてい盛り場がセットになってる」 「そうですよ。祝杯にヤケ酒、賭場の近くは自然に飲み屋が繁盛しますが……」 「ここで問題。賭博合法化でヤクザ賭場がすたれ、街道沿いの盛り場が衰退すると、困るのは?」  冬成はぽかんと見上げる姿勢です。 「それはだって……」 「街道沿いに寄港して、酒を卸してるー?」 「あのあの……」 「樽廻船の荷主のー?」 「う……」  巨体にのしかかられ、冬成は半泣きで言いました。 「うちの父さん……」 「はっはっは。バレてしまっちゃしょうがありませんな」  座敷に座った男が陽気に笑います。  開け放った障子から差し込む光は畳ばかりをまぶしく照らし、顔がよく見えません。 「あっさり認められると拍子抜けじゃのう」  差し向かいにいるのは、イベントの打ち合わせに来ていた越智屋のご隠居でした。 「うちの息子たちにも内緒にしておるのですがねえ。参考までに、どこで気づかれたかお聞かせ願えますか」  仁科酒造当主は気楽な様子で席を立ち、ぴたりと障子を閉めたので、薄暗くなった室内にゴオオと効果音が鳴ることもなく、越智屋ご隠居はラスボスと対峙していました。 「謁見で仲良うなった大名連中とは、官能黄表紙の話題で盛り上がったんじゃ。皆、仁科のノベルティ黄表紙を通読しとった。非売品でコンプリートは難しいのに」 「次男が書いておりましてね。ご好評をいただいていますよ」 「で、その同じメンツが賭博取り締まりの復活を進言しとったと聞けば、思わず想像するじゃろう。諸大名にせっせと陳情したあんたが、将軍を消した張本人かなーと」 「まだ決定打に欠けますな」  仁科父は愛想よい笑みを崩しません。 「えーとそうそう。江戸城チキンレースをやると言うたら、親切な太鼓持ちが心配してくれてのう。安全な侵入ルートから警備シフトまで、こと細かに教えてくれたわい。ありゃあんたとこの長男じゃったの」 「お客さまのニーズにはとことん答えるのが社のモットーですから」 「本来なら千両は下らん仕事になるじゃろうが、あれだけ準備が整っておれば、実行犯には実費だけ渡せば済んだはずじゃ。リーズナブルなお値打ち暗殺に、商人の影を感じたのは的外れかの」 「ご慧眼恐れ入ります」  ふたたび障子を開け放つと、庭に潜んでいた鶴亀コンビが身構えており、仁科父は一歩どいてご隠居の無事な姿を見せてやりました。 「優秀な護衛ですな」 「心配症でかなわんわい」  ご隠居はのんびりとあぐらを崩しました。 「ゾクゾクするのう~。世界中を回ってきたが、暗殺の黒幕というのに直接会うたのは初めてじゃ」 「ヤクザ賭場を守る義理はないですが、街道沿いの港々には苦労して開発した市場がありましてね。得意先のバランスが崩れては死活問題ですから。商いも戦争ですよ」 「戦争にしてもやり口が陰湿、いや奥ゆかしいのう。殺しはただひとたび、狙うは敵将のみとは」 「戦争は、規模が拡大するにつれて交戦の意味が軽くなりますからね。殺しが最小なら、効果は最大なんですよ」 「かっこええのう。小四郎や稲之衛門に聞かせてやりたいもんじゃて」 「おや、討伐された天狗党とお知り合いで?」 「同じ私塾のクラスメイトじゃ。子供の頃から威勢ばかりよくて、わしが世界一周しとるあいだに粛正されてしもうたわい。わしじゃったらもっと陰湿、いやもっとうまくやるんじゃがのう……」 「陰湿なツテならご紹介できますよ。黄表紙の印刷を頼んでいる七色活版の会というのが、裏社会に詳しゅうございましてね。発禁本や反政府ビラなんかも請け負うせいで、各種の非合法組織にネットワークが」 「ええぞええぞ。政府転覆して、年号をはなまる元年にしようかのう♪」  お江戸はまだまだ波乱の日々が続くようです。  めでたしめでたし。 ~どうでもいい裏設定~ 作中で使えませんでしたが、樋口家の所領は「関黒羽(かんくろう)藩」。関ヶ原のよこちょらへんにあると思います。 お付き合いありがとうございました!